imo-tarou’s blog

頭に浮かんだことを書き散らしています。食べて飲んで寝て走ってます。

ふと(少~しだけ)腑に落ちた「慈悲」

その人の能力、もしくは能力のなさというのはその人のせいなのでしょうか。

 

その人の頑張り、モチベーション、志し、意欲、価値観、大切にしていること、重要視していること、善意、優しさ、特技などなど、

またはその人の弱さ、怠惰、ずるさ、無気力、悪意、自己愛、嫌悪、偏見、臆病などなど、

はその人に全て起因するのでしょうか。

一般的には、その人に起因するとされていますよね。というか、起因するということを前提に社会の色々な物事が組み立てられているように思います。

 

でも「それらはその人に全て起因する」という考え方は、間違いではないのかもしれませんが、様々あるであろう物の見方の中の一つでしかない、とも言えるのだと思うのです。

いや、分かりません、もしかしたら何か人間の中の絶対不可欠な本能のようなものに根差した考え方なのかもしれませんが。

 

ただ、そこまで学術的に語りたいわけではなく自分のふとした考えや思いを、覚え書き程度に文章にしているだけなので、そこはご容赦下さい(すみません)。

 

その人の「今」は、色々な物事が影響して出来上がっているのだと思うのです。それこそその人が生きてきた人生、時間の全てです。全て洗い出して、それぞれがどのように関係して、どのように影響しあってその人の「今」を形作ったのか、ということは到底明確に出来るようなものではないと思います(多分)。

ここで言っている全てというのは、人生の中の記憶に残るような出来事、インパクトが強かった出来事だけを言っているのではなく、それこそ何年何月何日の朝ごはんは何を食べていたか、誰とどこで食べていたのか、もっと言ってしまえば、その時の天気は?気温は?、食べ終わった後、立ち上がって足を踏み出した1歩目は右足だった?左足だった?、その時足は床から何cm上がっていた?、その動きによって何kcal消費した?その時意識にはのぼっておらず全く覚えていないけれど聞こえていた(鼓膜を震わせていた)音は何だった?・・・(以下、延々と続けることが出来るのですが)といったレベルでの全てです。そう、意識にはのぼって来ていないけれど身体が経験していることも無数にあるはずです。

ある本では、人間の「意識」の容量を、扱える情報量として測ってみたら(測れたとしたら、だったかな)その容量は私たちがイメージしているよりもかなり小さいと言っています。

なんとなく、「意識」って広大で無限な感じ(うまく表現できませんが)がすると思うのですが(私だけ?)、実は大した容量はなく、「意識」にのぼって来ることなく無意識のうちに経験され処理が行われている物事が無数にあるそうです。それこそ、ちょっとした気温の変化によって毛穴がコンマ何ミリ開いた・閉じた、といったレベルのお話しです。

何を言いたいのかというと、そういった意識にはのぼって来ていない無数の物事でさえも私たちの「今」に影響しているのではないかと。今この瞬間、「今」をどのように感じ、どのように解釈しているのかということですら、一瞬で、目にも止まらない速さで、意識が追い付かないスピードで次の「今」に影響しているのではないでしょうか。

バタフライ効果」ってありますよね。「中国での蝶のひとはばたきが起こす空気の流れが、アメリカでのハリケーン発生に影響している」、みたいに極々わずかな変化や要素が巡りめぐって巨大な変化を引き起こす、ということだと思うのですが(専門的にはもっともっと複雑な話しだとは思いますが)。

 

これも、様々あるであろう物の見方の中の一つ、なのかもしれませんが、この視点で人間を見てみると、前述のような「その人の「今」は全てその人に起因する」、という考え方は成り立たなくなっていくと思うんです。

というか、「その人」つまり「個人」という概念自体怪しくなっていきますね。

なんか話しが、途中の道筋をすっ飛ばしているかもしれませんが、綿密に論理をたどっていく体力、集中力が私にはありません(苦笑)。

 

仏教が説いていることってこういったことですよね。間違っていたらすみません。

 

仏教が説く教え、物の見方、考え方が好きです。私は仏教徒です、というのとはまた違うような気がしますがその教えに魅力を感じます。ただ、読みやすい仏教関連の本を読んで学んだ気になっているレベルですが。

 

 

「私」は幻想である、「私」は単なる言葉・概念であり実体としては存在しない、と仏教は言っています。めちゃくちゃラディカルですね。カッコいいです。

 

全ては「縁起(因縁だったかな)」でつながっていて、独立した「個人」などは存在しない。無我?、空?だったでしょうか。

普段私たちが無意識に採用している視点が根本から覆されるような教えですね。

 

前述のように、意識にのぼっていることだけではなく無意識に経験され処理されている無数のことも含め、ものすごいスピードで影響しあい、絡みあい、雪崩のように怒涛の勢いで「今」が過ぎ去っているのだとしたら、そこに「私」などという単なる概念的なものは入り込む余地はないということでしょうか。いや、概念はあってもよいのですね。実体はないということですね。

 

あ〜書いていて頭が混乱しそうです。書き出す前はなんとなく道筋が見えていた気がしたのですが、書き始めると・・・文章を書くって難しいですね。

 

仏教には「慈悲」がちょくちょく出てきます。というか教えとして重要な中核なんだと思います。

言葉の意味としては理解できますが、実感としては「未熟な自分としては到底届かない境地だなあ」みたいな印象がありました。

そんな中、ふと「こういうことかなあ」「こういう感じ方も慈悲って言えるのかなあ」と思ったことがあり、この文章を書いています。

 

つまり、「何事もその人個人のせいにしない」・・・最終的に我ながらなんと稚拙な表現(苦笑)(T_T)

出来ることなら誰も責めたくない、これが慈悲でしょうか。うーん、なんか違うような。

 

じゃあ、犯罪とかはどう扱うんだ、など色々なことに関わってくるとは思うのですが。

 

・・・書いていて疲れてきました。ない頭を使って難しいこと考えすぎたせいでしょうか。集中力ないですね〜私(T_T)

・・・これ以上考えるのがだんだんめんどくさくなってきました(コラッ💢💢💨)。私の悪いクセです。

 

毎度のことですが、色々なところからの受け売りがたっぷり入り込んでいます(でもよく考えると「受け売り」ではないオリジナルな考えなんてあるのでしょうか・・・「私」という実体がないのだとしたら全て丸ごと私は「受け売り」で出来上がっているのではないでしょうか・・・はっ、また考えの連鎖が・・・キリがない)。

単なる自分のための覚え書きみたいなものなので、ご容赦ください。

 

じゃあなぜそんな覚え書きをブログとして公開するんだ!・・・これはこれでまた色々考えられることが含まれているテーマのような気がします。

もしかしたら誰かに読んでもらえるかもしれない、そういう可能性が「書く」動機付けにつながっているのかもしれません。

私の場合は幼稚な承認欲求ということなのですが(泣)。

 

最後の最後に違う話しになっていますね(^_^;)