imo-tarou’s blog

頭に浮かんだことを書き散らしています。食べて飲んで寝て走ってます。

ふと(少~しだけ)腑に落ちた「慈悲」

その人の能力、もしくは能力のなさというのはその人のせいなのでしょうか。

 

その人の頑張り、モチベーション、志し、意欲、価値観、大切にしていること、重要視していること、善意、優しさ、特技などなど、

またはその人の弱さ、怠惰、ずるさ、無気力、悪意、自己愛、嫌悪、偏見、臆病などなど、

はその人に全て起因するのでしょうか。

一般的には、その人に起因するとされていますよね。というか、起因するということを前提に社会の色々な物事が組み立てられているように思います。

 

でも「それらはその人に全て起因する」という考え方は、間違いではないのかもしれませんが、様々あるであろう物の見方の中の一つでしかない、とも言えるのだと思うのです。

いや、分かりません、もしかしたら何か人間の中の絶対不可欠な本能のようなものに根差した考え方なのかもしれませんが。

 

ただ、そこまで学術的に語りたいわけではなく自分のふとした考えや思いを、覚え書き程度に文章にしているだけなので、そこはご容赦下さい(すみません)。

 

その人の「今」は、色々な物事が影響して出来上がっているのだと思うのです。それこそその人が生きてきた人生、時間の全てです。全て洗い出して、それぞれがどのように関係して、どのように影響しあってその人の「今」を形作ったのか、ということは到底明確に出来るようなものではないと思います(多分)。

ここで言っている全てというのは、人生の中の記憶に残るような出来事、インパクトが強かった出来事だけを言っているのではなく、それこそ何年何月何日の朝ごはんは何を食べていたか、誰とどこで食べていたのか、もっと言ってしまえば、その時の天気は?気温は?、食べ終わった後、立ち上がって足を踏み出した1歩目は右足だった?左足だった?、その時足は床から何cm上がっていた?、その動きによって何kcal消費した?その時意識にはのぼっておらず全く覚えていないけれど聞こえていた(鼓膜を震わせていた)音は何だった?・・・(以下、延々と続けることが出来るのですが)といったレベルでの全てです。そう、意識にはのぼって来ていないけれど身体が経験していることも無数にあるはずです。

ある本では、人間の「意識」の容量を、扱える情報量として測ってみたら(測れたとしたら、だったかな)その容量は私たちがイメージしているよりもかなり小さいと言っています。

なんとなく、「意識」って広大で無限な感じ(うまく表現できませんが)がすると思うのですが(私だけ?)、実は大した容量はなく、「意識」にのぼって来ることなく無意識のうちに経験され処理が行われている物事が無数にあるそうです。それこそ、ちょっとした気温の変化によって毛穴がコンマ何ミリ開いた・閉じた、といったレベルのお話しです。

何を言いたいのかというと、そういった意識にはのぼって来ていない無数の物事でさえも私たちの「今」に影響しているのではないかと。今この瞬間、「今」をどのように感じ、どのように解釈しているのかということですら、一瞬で、目にも止まらない速さで、意識が追い付かないスピードで次の「今」に影響しているのではないでしょうか。

バタフライ効果」ってありますよね。「中国での蝶のひとはばたきが起こす空気の流れが、アメリカでのハリケーン発生に影響している」、みたいに極々わずかな変化や要素が巡りめぐって巨大な変化を引き起こす、ということだと思うのですが(専門的にはもっともっと複雑な話しだとは思いますが)。

 

これも、様々あるであろう物の見方の中の一つ、なのかもしれませんが、この視点で人間を見てみると、前述のような「その人の「今」は全てその人に起因する」、という考え方は成り立たなくなっていくと思うんです。

というか、「その人」つまり「個人」という概念自体怪しくなっていきますね。

なんか話しが、途中の道筋をすっ飛ばしているかもしれませんが、綿密に論理をたどっていく体力、集中力が私にはありません(苦笑)。

 

仏教が説いていることってこういったことですよね。間違っていたらすみません。

 

仏教が説く教え、物の見方、考え方が好きです。私は仏教徒です、というのとはまた違うような気がしますがその教えに魅力を感じます。ただ、読みやすい仏教関連の本を読んで学んだ気になっているレベルですが。

 

 

「私」は幻想である、「私」は単なる言葉・概念であり実体としては存在しない、と仏教は言っています。めちゃくちゃラディカルですね。カッコいいです。

 

全ては「縁起(因縁だったかな)」でつながっていて、独立した「個人」などは存在しない。無我?、空?だったでしょうか。

普段私たちが無意識に採用している視点が根本から覆されるような教えですね。

 

前述のように、意識にのぼっていることだけではなく無意識に経験され処理されている無数のことも含め、ものすごいスピードで影響しあい、絡みあい、雪崩のように怒涛の勢いで「今」が過ぎ去っているのだとしたら、そこに「私」などという単なる概念的なものは入り込む余地はないということでしょうか。いや、概念はあってもよいのですね。実体はないということですね。

 

あ〜書いていて頭が混乱しそうです。書き出す前はなんとなく道筋が見えていた気がしたのですが、書き始めると・・・文章を書くって難しいですね。

 

仏教には「慈悲」がちょくちょく出てきます。というか教えとして重要な中核なんだと思います。

言葉の意味としては理解できますが、実感としては「未熟な自分としては到底届かない境地だなあ」みたいな印象がありました。

そんな中、ふと「こういうことかなあ」「こういう感じ方も慈悲って言えるのかなあ」と思ったことがあり、この文章を書いています。

 

つまり、「何事もその人個人のせいにしない」・・・最終的に我ながらなんと稚拙な表現(苦笑)(T_T)

出来ることなら誰も責めたくない、これが慈悲でしょうか。うーん、なんか違うような。

 

じゃあ、犯罪とかはどう扱うんだ、など色々なことに関わってくるとは思うのですが。

 

・・・書いていて疲れてきました。ない頭を使って難しいこと考えすぎたせいでしょうか。集中力ないですね〜私(T_T)

・・・これ以上考えるのがだんだんめんどくさくなってきました(コラッ💢💢💨)。私の悪いクセです。

 

毎度のことですが、色々なところからの受け売りがたっぷり入り込んでいます(でもよく考えると「受け売り」ではないオリジナルな考えなんてあるのでしょうか・・・「私」という実体がないのだとしたら全て丸ごと私は「受け売り」で出来上がっているのではないでしょうか・・・はっ、また考えの連鎖が・・・キリがない)。

単なる自分のための覚え書きみたいなものなので、ご容赦ください。

 

じゃあなぜそんな覚え書きをブログとして公開するんだ!・・・これはこれでまた色々考えられることが含まれているテーマのような気がします。

もしかしたら誰かに読んでもらえるかもしれない、そういう可能性が「書く」動機付けにつながっているのかもしれません。

私の場合は幼稚な承認欲求ということなのですが(泣)。

 

最後の最後に違う話しになっていますね(^_^;)

 

ご冥福をお祈りいたします。

Hi-STANDARDのドラマー、ツネさんがお亡くなりになられました。

 

悲しいです。

 

ハイスタがすごく好きでした。いや、今でも好きなんですが、当時の熱量ほどではないというか、音楽自体、以前ほどは聞いていないというだけで、ただ単に私が年をくったというだけの話ですが。

 

ハイスタとの出会いは、とあるライブでした。以下、記憶のまま書いているのでもしかしたら記憶違いもあるかもしれません。

 

当時はメタルやパンクやハードコアといった音楽が好きで、主に洋楽を聞いていました。そんな中で、日本にもカッコいいバンドがいる、ということを知るようになり、ライヴハウスに見に行ったりしていました。

 

コークヘッドヒップスターズというバンドが好きで、その日はそのバンドが見たくて確か新宿ロフトだったと思いますが、行ったんです。そのライブが、ハイスタの「LAST OF SUNNY DAY」のレコ発ライブでした。発売記念ライブですね。

 

その当時の新宿ロフトは(確か今はもう移転してますよね。っていうかまだありますかね。ライブに行くっていうことから離れてしまって久しいもので)、何か見た目汚くて(失礼)、周りにパンクな人たちがいっぱいたむろしていて怖かったのを覚えています。狭い階段を地下に降りて行くんです。でも「怖くなんかないぜ!俺はライブハウスに来るのは慣れてるんだぜ!日常茶飯事だぜ!」みたいなふりをしていました(苦笑)。その日は一人で行ったのかなあ。

 

その時ハイスタのことは、バンド名を聞いたことがある程度で曲はまだ聞いたことがありませんでした。

 

ライブで初めてハイスタを体験しました。

 

お目当てのバンドを見に行ったら対バンで出ていた、ってやつですね。ハイスタのレコ発ライブなのに失礼な話ですが・・・。でも当時は「ピア」(「ぴあ」でしたっけ?)という雑誌の各ライブハウスのスケジュールを見て(そのページの文字がすごく小さかったのを覚えてます)、見たいバンドを見つけて見に行くといった感じでしたので、そのライブのメインのバンドが何かとかは気にしていなかったんです。

 

で、お目当てのバンドが終わりラストにハイスタが出てきました。

 

やられましたね。

 

凄かったです。何が凄かったのかもう詳細は覚えていないのですが(苦笑)、カッコ良かったです。

音圧がなんか凄かったのも覚えています。ライブで初めて聞いたので、爆音の中では曲の細かなところまでは捉えられていなかったのですが、音の塊というかエネルギーというか熱量というか、そんなようなものが凄かったのを覚えています。

あと、ギターの横山さんの顔が長髪に隠れてほとんど見えなかったのも、なぜか覚えています。

 

すぐにCDも買って聞き始めましが、もう、はまりましたね。

中毒のようにはまりこんで、1日何回も聞いてそれが毎日何ヵ月も続く、みたいな聞き方をしたアルバムが私の中で何枚かあるのですが、ハイスタのアルバムは「MAKING THE ROAD」まで全部それでした。

当時はほとんど洋楽ばかり聞いていた中で、日本のバンドにこれだけのめりこんだのは初めてでした。

 

雑誌やら何やらでハイスタの情報もよく追っかけていました。アルバムが出る、7インチ(レコード!)が出る、スプリットが出る、どこそこでライブがある(ライブは前述のようにちょっと怖かったので(苦笑)めちゃくちゃ行っていたわけではないのですが、でも見たいのでちょくちょく行っていました)、ハイスタに飢えていたような状態でした。

 

その当時は、ふらっとライブハウスに行ってその場でお金を払って入ってハイスタを見ることができていたのです。その時代を知っていることが、ちょっと自慢です(笑)。

でもだんだんバンドの知名度が上がり、そうもいかなくなってきたどころか、チケット自体取れなくなっていきました。

 

でもそれもカッコよかったですね。見た目普通のあんちゃん(失礼)たちが、どんどんでっかくなっていって、海外にも出ていって評価されて。それもdo it yourself的に自分たちの力で広げていっている感じがまた魅力的でした。

 

1枚のアルバムだけではなくバンド自体にはまりこんだ、というバンドも過去にいくつかありまして、そこまで惹き付けられたバンドは片手で数えられるくらいなのですが、ハイスタはその中に入っています。

 

下手くそバンドもやっていたので、ハイスタもコピーしました。が、・・・難しいんですよ、コレが。特にドラムが。それでも自己満足して楽しんでいました。ちなみに私はギターでした。

 

ハイスタの何が良かったのかっていうと、曲、なのは当たり前ですが、疾走感とギターのメタルな感じ、何よりもボーカルメロディーとハモりが素晴らしかったです。「ボーカルメロディーとそのハモり」の良さにはまったのはハイスタが初めてでした。それ以降、色々な音楽のボーカルハーモニーに耳を傾けるようになった気がします。まさに、ハイスタに音楽の新たな楽しみ要素を教わった感じです。

音楽はメタルから入ったので、それまではザクザクメタルギターばかりに耳がいっていました。

 

で、コピーですがドラムと歌が難しい‼️

歌のハモりがカッコよかったので、「俺、やりたい‼️」ということで、ハモりをとるのですが、まあハモらないハモらない(笑)。テープに録って聞き返してみるんですが、ハズレてるハズレてる、よくぞここまでというほどハズレています。

でも、ギターを弾きながらハモるという形に自己満足して楽しんでいました。

 

ドラムはそれ以上に苦労していました。完コピなんて無理です。あの疾走感でリズムをキープするだけで一苦労です。いや、キープもできていませんでした(苦笑)。

それでも内輪のライブで演奏したりして楽しんでいました。ホントあの頃は楽しかったです。

 

友達も言っていました。「このドラム、単なるパンクのレベルじゃないよね」と。

緻密なテクニックとあのスピード感を両立させて、リズムキープしながら疾走するツネさんのドラムはものすごいですね。

 

・・・ネットのニュースで訃報を知って色々な記憶がよみがえってきました。月並みな表現ですが、まさに青春時代でした。

 

私は車の中で、ウォークマンをカーステにつないで入っている曲をシャッフル設定で流していることが多いのですが、もちろんその中にハイスタも入っています。

ニュースを知る直前の仕事からの帰宅途中もそうやって流していましたが、その日は「catch a  wave」が流れていて、「なんか久しぶりにハイスタが流れてるなあ」と思っていました。ウォークマンには今見たら2000曲以上入っていまして、シャッフル設定で流し続けていると、しばらく流れていなかった曲やバンドがふいに流れてきて、それがまた良かったりもするのです。その時もそんな感じでした。

 

そしてその後、家についてご飯を食べて、くつろぎながらスマホを何気なく見ていて訃報を知りました。

 

次の日の仕事帰りの車の中では、ハイスタを選んで入っている曲をシャッフルで聞いていました。ハイスタの曲は全部とまではいきませんが、かなり入っています。

やっぱりいいなあ、と思いながら聞いていて「this is love」が流れてきたところで、なんか悲しくなってきました。昨日の「catch a wave」も入っている「love is a battlefield」というミニアルバムの中の曲です。メロディーが染みたのでしょうか。涙が出てきた、ということまでは正直なかったのですが、何か胸のあたりがムズムズするような不思議な悲しさでした。

なぜか、「なんか悲しくなってきた」と一人呟いていました。

 

ご冥福をお祈りいたします。

 

 

おいしい給食

「おいしい給食」めちゃくちゃ面白いですね‼️

あまり、というかほとんどテレビドラマはみないのですが、利用しているサブスクに入っており、なぜかタイトルにひかれてかなんなのか、見始めたら面白い‼️はまりました。シーズン2、映画まで見て、また最初から2回目に入っています。

主人公の甘利田先生が最高ですね❗演じる市原隼人さん、素晴らしい‼️

一見かたいようで実は内実、自由でハチャメチャ、人目なんか気にしないこだわり、でも自然体、冷たいようで優しい、意味とか意義とか大義とか目的とかではなく、ただ好きであるという一つの道を極めようとするとああなっていくんでしょうか、とにかく「とらわれ」がないように感じます。

甘利田先生にとって給食は「とらわれ」ではなく、「軸」なんだと思います。「軸」に良いも悪いもありません。人それぞれの「体軸」に良いも悪いもないように(は?)。軸に任せきって自由に生命を謳歌しています。

 

その軸が、「給食」であろうと、たとえば一般的に好印象をもたれるであろう、え~と、「平和」とか「教育」とか(そういえば甘利田先生は教師ですが)「世の中のために、社会のために」とか「貢献」とかであろうと、どちらが上でどちらが下とか、価値があるとかないとか、そういうステレオタイプ的評価を軽々と飛び越えて人生を存分に楽しみ味わっているように見えます。

 

素晴らしいですね❗演じる市原隼人さんの突き抜けっぷりもお見事ですね。

 

色々と勉強になりました。

実は甘利田先生みたいなたたずまいこそ「リラックス」なのではないでしょうか。

 

そして笑えました🤩

 

オススメです‼️

 

リラックスについて

リラックス、私にとっては難しいことになってしまっています。年をとるごとにだんだんだんだん難しくなっていってるような気がします。

 

なんだか悲しい・・・(>_<)

 

リラックスとは何なんでしょうか(なんてことを考えているから難しくなっているのでしょう😅)。

 

一瞬や短時間のリラックスは出来ているような気もしますが、リラックスし続けることが難しい‼️

気がついたら緊張している、かたくなっている、ということがしょっちゅうあります。

 

リラックスしようと意識する、リラックスもある種、連続した運動なのではないでしょうか。でもこれってリラックスなのでしょうか。

しかし今の私にはこういう感じがあるのです。しっくりくるのです。

なぜなら気がついたら緊張しているから。油断したら、かたくなっているから。

なので今の私にとっては、コレがリラックスの本質に近く感じます。

 

ではその運動とは何だろうかと考えてみますと、

ゆるめる、力を抜く、スペースを空ける、浮かす、開く、周りの空間に馴染む、招き入れる、通過させる、管になる、ちくわになる、遮らない、掴まない、手放す、観察する、実感を得ようとしない、来るもの拒まず去るもの追わず、さらす、などなど。色々なところからの受け売りも入っています。

 

文章を書いてみて感じたのは、言葉って難しい、ということです。的確でしっくりとくる言葉というのがなかなか見つからないですね。常に何か足りていないような感じがします。まあ、これが言葉を重ねていく駆動力なのでしょう。重ねることが良いことかは置いておいて。

 

話を戻しまして、上に書いた「運動」の目的語(?)は何なのでしょうか。

何をゆるめる? 何のスペースを空ける? どこに空ける? 何を浮かす? 何を開く?・・・

 

何に働きかけているのでしょうか。どこに働きかけているのでしょうか。

 

身体? 筋肉? 心? 関節? 内臓? 脳? 皮膚?

 

全てなのでしょう。全体なのでしょう。働きかける先や働きかけるタイミングの選択を「私」に任せたらよくないような気がします。では何に任せるのでしょう?

よくわかりません。「何か」としか言いようがありません(なんだか怪しげな話になってきましたね😅)。

なんだか書いていて、雲をつかむような、もう言葉を続けるのがめんどくさいような気持ちになってきました。

 

これらをランニングにも持ち込みたいのです。走ることにも、力を抜く、リラックスする、ゆるめるといったことはとても大切だと感じます。

 

ランニングフォームについて、いろいろな本やYouTubeなどで様々なことが言われています。勉強になります。が、なんだかよくわからなくもなります。情報を仕入れれば仕入れるほど。

セミナーにも参加したことがあります。

言われていることを色々と試してもみました。

でも、「私」が意識して行う、選択する、働きかける物事に頼るのに限界を感じるようになってきました。もちろん、それらの中にも有効で大切なこともあると思いますが、何て言うのでしょう、深くまで突き抜けない感じがするのです。「広大」の中の小さな点でしかないような。何を言っているのかすでに自分でも分かっていません。

 

任せないといけないのでしょう、「何か」に。

まだ任せきることが出来ていないのでしょう。

 

ホントに怪しげな話になってきました😅

 

自分の文章力のなさ!😫 着地点もへったくれもありません。そもそも着地しようと思っていません。論理も道筋もあったもんじゃありませんね。文章を書くって難しい・・・。

 

あまりにとりとめがなくなってきましたので、この辺で終わりにしたいと思います。

 

走るって奥が深いですね(安易な締め)。

 

 

 

 

弱さとは。

「弱い」、語感から感じてみます。「よわい」、なんか弱い感じがします。

 

「私は弱いなあ」と感じることがよくあります。

 

フィジカル のことだとしたら分かりやすいのですが。

 

言葉? 言葉で考えてもどうなんでしょう。水で水をすくうような。永遠にらちが明きません。

 

「強い」とは。メンタルのことだとしたら、「切り替えが早い」「切り替えがスムーズ」ということなのではと感じます。

 

自己否定はいけないのでしょうか。私は何とか自己否定から立ち上げてみようと思います。自己否定を基本として。

 

これは物語です。論文でも論考でもエッセイでもありません。いや、何でもいいのです。虚構ということです。虚構の力のなんたる強いことか。望むと望まざるとに関わらず。

 

「言葉」がそもそも虚構なのでしょうか。すべては「物語」だと思います。いや思えていないのです、実際。

虚構にどっぷりとはまりこんでいます。

 

だから私は走ります。虚構を吹き飛ばすために。完全に無駄な努力です。絶対に吹き飛ばすことなどできないでしょう。

 

フィジカルで、肉体の動きで、虚構をねじ伏せたいのだと思います。でも無理なのです。どんなに速く走ろうと、どんなに息を切らそうと、どんなに心拍数を上げようと。

 

それでも走ります。無駄な努力だとしても走ります。何かあるんです。所詮「言葉」でしかないものの外側に何かが。実感も達成感も獲得感も得られない領域なんだと思います。でも何かそちらにひきつけられる感じがあるのでしょう。「そちら」が一体どこなのかはわかりません。探したり考えたりすると結局抜け出せなくなるのです。

 

「依存」、「逃避」、言葉ではその他色々な表現があるのでしょう。

 

この文章も自己愛的な匂いがぷんぷんと漂ってきています。

 

なぜ、文章など書くのでしょう、私は。これはこれでまたひとつのテーマです。

 

とにかく私はまた走ります。意味も利益もメリットもあると言えばあるし、全くないとも感じます。でもそういうことではない、とも感じます。「言葉」ではどこまで行ってもらちが明かない、そういう領域があることを教えてくれました。

ランニングが。

色々な走り方

どうも右膝の調子がいまいちなので、色々な走り方をしてみました。

 

というのも、私はいつもチンタラチンタラ同じペ〜スで走ってるわけなんですが、(チンタラっていったいどこから来た言葉? チン?アゴ?タラ?お魚?・・・はっ、そんなことはどうでもいい‼️)そうすると身体の同じ箇所に同じ負荷が延々とかかり続けるわけです。どなたかも言ってました。同じところにダメ~ジが積み重なるってことですね。

 

大迫選手は、腸脛靭帯炎の克服法を聞かれて「我慢です。とにかく走りましょう。ちなみに僕は我慢して早いスピ〜ドで走ったら良くなりました(笑)」って言ってます。

カ、カッコいい・・・

 

やっぱり延々と同じスピード、いやスピ〜ドで走り続けるのは良くないのでしょう。

 

私の場合は、右膝が弱いのか、フォ〜ム(なんで「〜」を使う?いや、そんなことはどうでもいい‼️)の癖で、右膝に大きい負荷がかかりやすいのか。

私の右足はニ〜イン・トゥ〜アウトなんです(だからなんで「〜」を・・・いや、もういい)、knee in, toe out(合ってますかね?つづり)、にいいんとぅうあうと、ひらがなで書くとなんか面白いですね、・・・そんなことはどうでもいい‼️ 集中しろ‼️・・・怒られてしまいました(誰に?)。

膝が内側を向いて、爪先が外側を向いている、膝と爪先の向きが一致していないという例のあれです(例のあれ?)。

しかも加えて私はO脚です、オ〜きゃく。

ニ〜イン・トゥ〜アウトやO脚は良くありません、膝に負担がかかります、と本やユ〜チュ〜ブが言ってますが、これって治るんでしょうか?

自分の足をジ〜っと見てみるのですが、骨が不必要に湾曲してる? 膝のつくりがなんか変? 左右でちょっと違いがあります。

よく、O脚治します❗、みたいなマッサ〜ジ屋さんの広告を見かけますが、本当に治るんでしょうか?

自分の足を見ている限り、到底治るとは思えないというか、ガッチリした構造としてそこに鎮座ましましている感があるので、そもそも治すとか、そういうことなんだろうか、という感じがしてきます。  

さいころからO脚だった記憶がありますし、生まれながらのものだとしたらどうすれば良いのでしょう?

「O脚のあなたは長距離を走るのに向いてません。即刻やめましょう」ということでしょうか。うぅ、悲しい。

いやまあ、そういうことではないとは思いますが。

 

ユーチューブ、いやユ~チュ~ブなどで色々なランナ~を見ていると、「この方、O脚だなあ、この方はニ~イントゥ~アウトだ」という方が結構いらっしゃいます。しかも有名選手だったり、ものすごく走っているものすごく速いランチュ~バ~さんの中にも見られたりします。ジ~っといろいろな方の足を観察していますと。

 

なので、O脚やニイントゥアウト(もう「~」がめんどくさい・・・)のせいにしてはいけません。言い訳です!

 

てなわけで、負荷を分散させましょう❗、ということで色々な走り方をしてみました。

 

もも上げ、スキップ、バウンディング、股関節を外旋させるような感じのもも上げ、内旋もも上げ、かかとをお尻にたたきつけるやつ、後ろ走り、後ろ走りしながらの股関節内旋外旋もも上げ、腰をひねるもも上げ、手をぐるぐる回しながら走る、手を後ろで組んで走る、ゾンビのように手を前に出して走る、両手をわぁ~って感じで上に上げて走る、両手をダラ~ンと下げて走る、手を上で組んで走る、横走り、横走りしながら両腕を連関させてぐるぐるしながら走る(ちょっと何言ってるのかもうよくわからん)、一歩一歩すごく外側に着地するように走る、すごく猫背で走る、すごく上体をそらして走る、けんけん走り、両足をそろえてジャンプしながら走る(いやすでにこれは走ってはいない。前にジャンプしてるだけ)、笑顔で走る、しかめっ面で走る、ダッシュ、流し、ウインドスプリント(同じか)、全力疾走、すごく深く呼吸しながら走る、お尻を不自然に左右に振りながら走る、胸を思いっきり張って走る、これ以上は無理というくらい異常に早いピッチで走る、フォアフット・・・

 

などなど走りながら可能な、思いつく限りの体の動かし方をとっかえひっかえしながら、間に短いジョグを挟みつつ止まることなく走り続けてみました。ペ~スもへったくれもありません(「へったくれ」ってなんでしょう?語感が面白いですね。どこから来た言葉なのでしょうか。勢いのみ、語感のみで生まれたのでしょうか、最初に考えた人はすごいですね・・・また話がそれる、集中しろ!)。

 

でもまさに全身運動、結構疲れます。スピ~ドのトレ~ニングには全くならないと思いますが有酸素運動としては良いのではないでしょうか。でも・・・あまり人には見られたくないような走り方も多々ありますので、周りに人がいないか確認しながら走ってます。走るのは夜の田舎道が多いので、そもそもあまり人はいませんが。

 

ですがこの前走っているとき、はっと気が付いたら人が近くにいて、その時私はスキップをしていたのですが、しかもものすごく寒い朝で冷たい空気のために涙と鼻水も出ていました。いいおっさんが涙と鼻水を流しながらスキップしている姿って・・・。

怪訝な表情でこちらを見ていたような気がします。見て見ぬふりをしているような感じもありました。すみません・・・戸惑わせてしまいまして。

 

で、膝はどうかというと、全く痛くならない!、ということもなく・・・(泣)、でもチンタラぺ~ス走に比べるとやはり負荷は分散されているのか、痛くなりづらい、膝が長時間もつ、という感じはします。

 

大迫選手もおっしゃっていたように、スピ~ドを上げると痛くない、というのも実際あります。でもへっぽこランナ~の私はスピ~ドを上げると全然スタミナがもたない・・・。

 

でもこの「色々な走り方」ラン(なんだそりゃ)、は悪くなさそうなので今後も続けてみようと思います。そんでもってフォアフット気味で走るのが良いのかなあ、なんてことも感じましたが、まだよくわかりません。

 

しかし、どうでもよい話ですね・・・全体的に(泣)。

 

でも走るって良いですね。奥が深いです。

走った後のビール、いやビ~ルも最高ですね。

一日の終わりに走った。

朝、起きる。寒い。部屋の暖房をつけてトイレに行く。髭をそってからコーヒーを飲む。深く呼吸することを意識する。

 

体操する。ストレッチをする。深い呼吸をしながら。

着替える。着込む、何枚も、ノロノロノロノロ

深く呼吸する。吸う、止める、吐く。

スマホを少し見る。指先が硬くなっていてスムーズに反応しない。

 

家を出る。気分が微妙に変化することに気付く。

車が凍っている。見事に。エンジンをかける。フロントガラスとリアガラスにお湯をかける。

 

運転しながら朝食を食べる。ケチャップとチーズをたっぷりはさんだトーストサンド。冷たいけど、まあおいしい。

深く呼吸する。鼻から吸って、口から吐く。

 

職場につき、仕事着に着替える。寒い、ここでも。

 

仕事中はいろいろな感情が湧いてくる。いろいろな状態がどんどん来てはどんどん去っていく。不安、緊張、焦り、集中、疲れ、申し訳なさ、無力感、劣等感、怒り、高揚感、孤独感、むなしさ、承認欲求、いたたまれなさ、空腹感、依存心、ふんばり。ネガティブなものが圧倒的に多いように思う。ネガティブでもポジティブでもない、とも思う。

 

言葉が飛び交う。黙々と作業をする。

 

昨日が締め切りだった提出物を催促する電話がある。相手も催促などしたくはないのだ。忙しいところ申し訳ない、と。こちらこそ申し訳ない。

 

ねぎらいの言葉をかける。ねぎらいの言葉をかけられる。ねぎらい合う、大切だと思う。

 

目の前の作業に追われ、厳格な締め切りはないがやらなければいけないこと、やるべきことが出来ずにたまっていく。今日もそう。昨日もそう。

 

ずっと立ち仕事。ふと、骨盤が後傾しているな、と感じる。呼吸を意識することは忘れている。まあいい。

 

目の前のこなさなければいけない仕事に追われ、終業時刻が来る。まだ終わっていない。終わるまでは帰れない。

 

同僚と他愛もない話をする。俺たちの人生このままいくのかなー、と明るいトーンで話す。笑う。愚痴る。ねぎらう。ねぎらわれる。

 

お疲れ様、本当に。職場には良い人が多い。恵まれているのではないかと思う。

 

車に乗って帰る。道はすいていて、気持ちよく家に着く。

 

すぐ着替える。寒いのでニット帽をかぶる。シューズに足を入れ紐を結ぶ。冬は乾燥で手の指先がぱっくり割れる。痛みで紐が結びづらい。自然によくここまでぱっくり割れるよな、と思うぐらい親指の先が割れている。

 

走る。今日は45分ほど走った。寒いので、ほとんど汗もかかない。

 

家に戻り、シャワーを浴びる。右膝をさする。もう9時半だ。

 

ビールを飲む。うまい。泣けるほどに😊